石川県

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石川県

金沢県から石川県へ

 700年におよぶ武家政治が、日本の歴史から姿を消した。これは、武家政治のはじまるずっと前から1000年以上にわたっての名前であった加賀″能登″というのが公式名称として使われなくなる事態を生み出してきた。かわってあらわれるのが石川県という名である。
名は体をあらわす″とはよくいわれる言葉である。日本の歴史での近代の誕生とともに、加賀・能登が石川県に代わった。この名称の変更は、はたしてこの地の体質の変更を意味するのであろうか。もし変わったところがあるのならば、石川県という名称はどのような体をあらわすのであろう。
 最後の将軍徳川慶喜が政権を朝廷に返して260余年つづいた江戸幕府のなくなったのが慶応三年(1867)、翌年から改元されて明治となった。この王政復古によって、中央政府の組織は大いに変わった。しかし、それにくらべて地方政治の実情はそれほどの変化はなかった。現在のような府県に落ち着くまでには、いろいろの紆余曲折を経なければならなかった。
 明治二年(1889)六月、各藩主が土地(野と人民)を朝廷に返上するという、いわゆる版籍奉還がおこなわれた。これによって藩主の籍は東京に移されたが、実際は藩主を藩知事として政府の地方官の形式をとったにすぎず、依然として金沢薄・大聖寺藩という旧藩籍がそのまま地方行政の区画であった。ただ能登のなかの六一村(一万石余)の天領(慶長十一年(1606)以後 土方氏領地であったのが貞享元年(1684)幕府に没収されて天領となる)は、享保七年(1722)から加賀藩の御預地(御預所ともいう)となり施政が一任されていたのが、このときには飛騨(岐阜村)の高山の管轄にはいって高山県となった。
 また、牛首(石川郡白峰村)や尾添(同属村)など白山麓一八ヵ村は、天領として本保陣屋(福井県武生市)の支配下にあったので、そのまま本保県に組み入れられた。
 このように、実質的には藩制時代とほとんど変わりはなかった。全国がこうした状態であったから、明治維新の実効果はほとんどあがらなかった。そこで二年後の明治四年七月、大久保利通・木戸孝允らが中心となり、薩摩・長州・土佐三洋の勢力を背景にして断行されたのが廃藩置県である。

 これによって藩が廃され、金沢藩は金沢県に、大聖寺藩は大聖寺県になった。区域は以前と変わらず、大聖寺県は江沼郡と能美郡の一部、金沢県は石川・河北・能美(大半)の加賀三郡に能登の大部分と越中の砺波・射水・新川(大部分)三郡を管轄した(越中の婦負郡と新川郡の一部は宮山薄から富山県になる)。版籍奉還との根本的相違は、さきには籍だけが東京に移ったにすぎなかった旧藩主の藩知事が廃止されて、東京居住が命じられたことである。
この措置で、長く続いた藩と地方民との問の封建感情の除去がはじめて実行段階にうつり、中央集権政治が格段の進展をみるようになった。
代わって、県令以下の地方官が置かれた。鹿児島県士族内田政風が金沢県大参事として赴任してきたのは、旧藩主前田慶寧(藩知事)が東京移住のため金沢を出発した一ヵ月後の同四年九月であった。なお内田はその十一月には参事、五年(1872)九月に石川県権令、翌六年末には県令昇任と、八年三月に辞職するまでの約四年間、維新のバスに乗り遅れた大藩の県政の最高責任者として微妙な立場にあったのである。

 ところでこれ以後の県の区域の移動はいまだ基礎の固まらない維新政府の動揺を反映するかのように激しい。
 大聖寺県は設置後わずか四カ月で廃止され、四年十一月に金沢県に合併された。同時に金沢県から能登と越中の射水郡を分離して、それをさきに能登にあった高山県属した六一村と合わせて七尾県を新設した。設置と同時に、徳島出身の士族中島錫胤が権令として赴任している。なおこのとき、越中の砺波・新川郡も金沢県の管轄から離れ、婦負郡の富山県と合併して新川県が設置されたから、金沢県の区域は加賀一国(白山麓を除く)に縮小きれたわけである。
 ところで金沢県の県庁は、金沢藩以来の金沢の長町(老臣長氏の尾敷)にあった。が、この管轄区域縮小にともない、金沢は加賀の北にかたよりすぎるという理由で翌五年(1872)二月、手取川口の石川郡本吉村を美川町と改め、県庁をその旧奉行所に移した。同時に県名も郡名にもとづいて石川県と改めた。
しかしこれは表面上の理由であって、おそらくこの挙に出た参事内田政風には、政治都市としての百万石城下町金沢の実勢力と旧加賀藩士族の県政にたいする圧力を弱めようとの意図がかくされていたのではあるまいか。それはとにかくとして、この県庁移転の金沢と士族にあたえた打撃は大きかった。六年一月、再度県庁は金沢に復帰するが(広坂通)、この一年間で金沢は火の消えたように衰え、回復は容易なことではなかった。藩政末期の人口に復したのがようやく明治末年であったということだけをみても、この挙が金沢と士族を去勢した強烈さが推定できるであろう。

 金沢県が石川県と改称された明治五年の九月に、七尾県も分解されて、越中の射水郡は新川県へ、能登の四郡は全部石川県へ合併になった。残るのは、加賀の一部である白山麓一八ヵ村を含んでいた本保県であるが、これは四年十一月に廃されて福井県の管轄になった。翌十二月福井県は足羽県と改称になるが、この足羽県から、五年四月に白山麓の所属について大蔵省の指示を求めた。地元では牛首(白峰)・風嵐は福井県所属を希望したが、他の諸村が反対したことと、森田平次を中心とする石川県側の歴史的調査などが効を奏して、白山と山麓一八ヵ村は石川県能美郡所属に決定した。こうして、明治五年十一月に、加能二国を区域とする現在と同じ規模の石川県ができたことになるのである。
 現在では、だれでも加賀の白山とか石川県の白山と呼んでいる。が、江戸初期の白山争論で寛文八年(1668)から白山と山麓一入力村は天領となり、山は平泉寺の朱印領に含められた。平泉寺は越前の勝山にあるため、寛文八年から明治五年までの二〇四年間は公的には越前の白山であった。だから、はじめて正式に加賀の白山、石川県の白山になったのはこのときからであるということに注意すべきであろう。